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スポーツ
 

2016年2月4日「前田 穂波」〜龍谷大付平安中のチアダンス部主将〜

 宗門校・龍谷大学付属平安中学(京都市)のチアダンス部主将。2月4日、チーム12人で本山・阿弥陀堂に参拝し、第5回全国中学校ダンスドリル冬季大会での団体総合優勝2連覇を奉告した。

 ダンスドリルは、アメリカの高校体育が発祥で、「訓練されたダンス」という意味。仲間と呼吸を合わせ、美しい動きとフォーメーションで魅せる。参拝して合掌や焼香する姿も競技同様に全員キビキビ。「打ち合わせていないのに隣同士、自然と動きが合いました」とはにかむ。

 小学2年でダンスを習い始め、全国屈指の平安チアは憧れだった。京都府の南端・精華町からの通学も苦にならないほど、今は部活が楽しい。春からは同付属高校に進学する。「高校でも続けて、もっと上手くなりたい」。将来の夢は数学の先生になること。身も心も躍る。中学3年。 (本願寺新報 2月20日号より転載)

行事
 

2016年2月29日「卒業前日に本山参拝」〜京都女子高校3年生384人〜

仏教学び、自己中心性に気づきやさしくなれた

 宗門校・京都女子高校の3年生384人が卒業式前日の2月29日、本山・御影堂に参拝した(写真)。163人が帰敬式を受式し、ご門主からおかみそりをいただいた。

 近藤なのはさんは「仏教の言葉で好きなのは『ご縁』。卒業を迎えることができたのも私一人の力ではなく、両親をはじめ多くの人の支え、さまざまな条件が調ってできること。感謝の心を忘れないように心がけたい」。牛田望未さんは「宗教を学ぶことに最初は少し抵抗があったけれど、仏教を学ぶことで、自分が自己中心的であることに気づくことができ、やさしくなれたように思う」と、〝心の学園〟を巣立つ心境を語った。
(本願寺新報 3月20日号より転載)

 

2016年2月22日「阿弥陀さまのおそばで法名呼び合う約束できた」〜相愛学園〜

相愛学園が卒業奉告参拝 82人が帰敬式

 卒業シーズン。この春、宗門校を巣立つ学生や生徒らが相次いで本山へ奉告に参拝している。

 2月22日には大阪・相愛学園の高校3年生92人が参拝。式典に合わせて行った帰敬式に72人が臨み、ご門主からおかみそりをいただいた。

 同高の安井大悟校長が式典で「法名はお釈迦さまのお弟子に仲間入りした証し。相愛で机を並べた友と、阿弥陀さまのおそばで、この法名で呼び合う約束ができたのですから、今日は何て素晴らしい日でしょう」と帰敬式の意義を伝え、「これからもご縁を喜び、おかげさまと感謝できる人になることを目指して精進なさってください」とはなむけの言葉を贈った。

 帰敬式には保護者や相愛大学の学生10人も臨んだ。高3の笹村茉子さんと一緒に受式した母親の敦子さん(52)は「娘が相愛中に入学した6年前から、このおかみそりは心に決めていた。娘がおかみそりを当てていただく瞬間は涙が出た」と目元を潤ませていた。

 生徒たちは、手渡されたお互いの法名を見せ合いながら、「みんな『釋』で同じ名字。大家族やな」と笑顔を浮かべ、卒業前の時間を惜しむように過ごしていた。
(本願寺新報 3月10日号より転載)

 

2016年2月19〜23日「私のできること 考え続けたい」〜福岡・筑紫女学園大学〜

学生ら「微力でも」と東北訪ね16回

 宗門校・筑紫女学園大学(福岡県太宰府市)の学生16人が2月19日から5日間、福島、宮城、岩手の3県を訪ね、東日本大震災で被災した人たちと交流した(写真)。復興住宅や福島県復興支援宗務事務所で心尽くしの手料理を振る舞ったほか、地元のボランティアや大学生と「復興」「支援」を熱く語り合った。同大の現地ボランティア派遣は震災翌年の2月に始まり、今回が16回目。

 参加3回目で、リーダーを務めた井之上彩香さん(3年)は「学生の私たちにできることは少ないかもしれないが」と、未熟さを自覚しつつ訪問を重ねる。「それでも、出会った人たちの心の傷の深さを、1回目や2回目より少しは気づけるようになったかな。これからもずっと、私なりにできることを考え続け、一人でも笑顔にできれば」と前を向く。

 同大学から被災地を訪れた学生は延べ193人になる。毎回、メンバーの半数以上は初参加だが、被災者は「また来てくれたね」と、帰省した孫を見るような優しいまなざしで迎えてくれるという。継続の成果だ。

 引率の栗山俊之教授は、笑顔を届け、時には共に涙しながら被災地の悲しみに向き合う学生たちの姿を見守ってきた。「不器用かも知れないが、最も困っている人に寄り添いたい、微力でも力になりたいという彼女たちのまごころは、筑女の建学の精神そのもの」と語る。
(本願寺新報 3月10日号より転載)

 

2016年2月11日「本質は、その精神性」〜日本料理の国境線は? 龍谷大がシンポ〜

 宗門校の龍谷大学は2月11日、「日本料理の国境線」をテーマにユニークなシンポジウムを京都市内のホテルで開いた。

 昨年4月の農学部新設とともに設置された「食と農の総合研究所」付属の研究センター(伏木亨センター長)が企画。大学、食品関係者、一般から360人が参加し、京都の老舗料亭の料理人が西洋料理と比較しながら日本料理を再定義しようと重ねた研究成果に耳を傾けた(写真)。

 シンポジウムではまず、伏木センター長が問題提起。「日本料理にイタリアンやフレンチなどが採り入れられ変化しつつある。しかし、変わりながらも守るべきものはある。それは食材なのか、調理法なのか、精神なのか」。これを受け、客員研究員の料理人10人が日本料理と西洋料理の境を探るために研究し、実験的に作った「バター真丈」や「だしで煮込んだ牛テール」をはじめ、「鰤の赤ワイン煮」「ベシャメル柚子釜」などの創作料理をプレゼンテーション。参加者は、日本料理に仕立てた工夫話を聞きながら試食、その味を確かめていた。

 料亭「菊乃井」主人の村田吉弘さんと伏木センター長が「超えるべきか、超えないべきか」と題し対談。村田さんが「西洋的な食材や技術を使っても日本料理になる。本質はその精神性にある」とまとめた。
(本願寺新報 3月10日号より転載)

 

2016年2月10日「気分はブロードウェイ」〜龍谷大〜

 宗門校・龍谷大学の同好会サークル「B.W.Broadway Musical Circle」が2月10日から3日間、英語劇「美女と野獣」を京都駅八条口のアバンティ響都ホールで上演(写真)、延べ1000人が鑑賞した。

 同サークルは、「ミュージカルを演じることで英語の力を身につけよう」という非常勤講師ジョン・ゴーマンさんの授業を1年間学んだ学生4人が2 0 1 2 年4月に発足。毎年、ブロードウェイミュージカルから演目を選び、英語で劇を演じている。配役はオーディションで決め、大道具、小道具、衣装、音源などすべて部員が作り上げる。歌や演技の指導はゴーマンさん。現在、欧米やベトナムの交換留学生7人を含む60人が所属している。

 高橋政洋代表(3年)は「英語力やいろんなことが学べる場。ゴーマン先生や先輩に感謝したい」と話した。

(本願寺新報 2月20日号より転載)
 

2016年2月9日「龍谷大、三重県鈴鹿市でもメガソーラー始動」〜龍谷大〜

 再生可能エネルギーの普及と地域貢献を目的にメガソーラー(大規模太陽光発電)事業に取り組む宗門校・龍谷大学(赤松徹眞学長)はこのほど、三重県鈴鹿市に「龍谷ソーラーパーク鈴鹿」を設置した。2月9日に竣工式を行い(写真)、発電所を稼働した。

 事業は鈴鹿市とPLUS SOCIAL社(京都市上京区)との連携で、龍谷大が社会責任投資を行い、3者が互いに資源やノウハウを提供。駐車場跡地に太陽光パネル1万4 7 4 5 枚を設置、年間予定発電量は約400万キロワットで、一般家庭約1000世帯分の消費電力に相当する。総事業費は11億円。売電で生じた利益は鈴鹿市などに寄付し、地域貢献活動に充てられる。同大学のメガソーラー事業は和歌山県印南町への設置(平成25年11月)以来、2例目。
(本願寺新報 3月10日号より転載)

 

2016年2月8日「安全運転 旗で訴え」〜旭川龍谷高〜

 宗門校の旭川龍谷高校(小野寺敏光校長、北海道旭川市)が第56回交通安全国民運動中央大会の交通安全優良学校に選ばれた。2月8日、旭川東警察署での表彰式で、生徒会長の山岸菜摘さん(2年)が表彰状を受け取った。

 同校は年4回、1週間ずつ、生徒が通学時間帯に学校前の沿道に立ち、「交通安全」「スピードダウン」の旗を持って、ドライバーに安全運転を呼びかけている(写真下)。地元警察署も協力している。

 この活動は、平成19年に登校中の渡辺華菜さん(17)が車にはねられ亡くなった悲しい事故がきっかけ。生徒たちが「こんな悲しいことは二度とあってはならない」と自発的に始めた。また、道路沿いにある体育館の壁面には「HANNA BOARD」と名付けた掲示板を設置、生徒や教職員が考えた交通安全の標語を常に掲げている。山岸さんは「声かけによって、運転する人たちが速度を落としたり、注意して走行してくれるのでやりがいがある。交通事故が少しでもなくなるように、これからも頑張りたい」と話している。
(本願寺新報 3月1日号より転載)

 

2016年2月3日「学生たちが英語劇」〜京都女子大〜

1800面の字幕を作成

 宗門校の京都女子大学(林忠行学長、京都市東山区)で2月3日、英語劇に取り組む英文学科の「プロダクション・ゼミ」が卒業公演を行った。

 バーナード・J・テイラー氏による本邦初演のミュージカル作品「嵐が丘」を、ピアノやバイオリンなどの生演奏とともに3時間にわたり上演。セリフと歌詞を翻訳した1800面にも及ぶ字幕を作成し、スクリーンに投影した(写真)。学生たちは流暢な英語で情感たっぷりに演じ、200人の観衆を魅了した。

 キャスト・スタッフ総勢45人が半年前から準備。作品の理解から始まり、舞台の効果音や照明、道具を製作。出演者はセリフ暗記、発音練習、演技やダンス、演奏者は50曲に及ぶ楽曲を練習した。音響担当の坂本有美さんは「効果音は場面を印象づけるので、奥深さ、難しさ、やりがいを感じ、とにかく作品を読み込んだ。考えて作り上げた形を発表できたことがうれしい」と話した。

 同ゼミは、2010年に取り入れられたユニークなカリキュラム。日高真帆准教授が英語劇を通した実践的な授業を展開。作品研究を、英語で執筆する卒業論文のテーマにする学生も多く、ヒアリングやスピーキングに加え、ライティング、発音、翻訳力、暗記力など多面的に英語力が向上すると人気も高い。卒業公演は3回目。

(本願寺新報 2月20日号より転載)
 

2016年2月3日「菊池 三希」〜京都女子大学 英語劇のゼミ長〜

 京都女子大学英文学科プロダクション・ゼミ4年生ゼミ長。卒業公演「嵐が丘」でロックウッド役を演じた。オープニングシーンに登場し、流暢な英語と迫真の演技で、観客を一気に物語へと引き込んだ。「芝居は難しく、自分が抜けきれず苦労した」と振り返る。

 広島県生まれ。「国際的に活躍してほしい」という両親の願いで、小学2年の頃から英語教室に通った。学生生活は京都で送りたいと同大学の英文学科を選択した。イギリス留学の時に本場のミュージカルに魅了され、帰国後、プロダクション・ゼミを希望、選考を通過しゼミ生となった。

 卒業後はANAの客室乗務員として勤務する。「ゼミ長の経験は、リーダーの役割やチームワークを教えてくれた。この経験を忘れず精進し、後進を育てられるようになるまで頑張りたい」と笑った。

(本願寺新報 2月20日号より転載)
 

2016年2月1日「語り継ぐ 平和への思い ①」

曾祖父の無念さ思い、作文に綴る

龍谷大付属平安中学3年 船橋 維さん


 「あの惨禍を二度と繰り返さない」  
 戦争を知らない若い世代が戦争体験者の思いを受け継ぎ、悲惨な体験と教訓を継承しようとする姿をシリーズで紹介する。初回は、戦病死した曾祖父の無念さに思いを巡らせ、反戦の作文を書いた中学生とその家族を訪ねた。
戦争の影、あふれる苦しみや悲しみ
戦争の現実見つめ、家族の絆深める


生まれた子を2度と抱くことなく

 京都市にある宗門校の龍谷大学付属平安中学校に通う船橋維さん(15、同市・真覚寺門徒)。
 昨年9月18日に宗門が営んだ千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑)で、「反戦に対する思い」と題した作文を読んだ。
 祖父から聞いた、曾祖父のことを書いたものだ。

 「1941年8月23日、中国の済南陸軍病院で1人の兵士が命を落としました。享年28歳。本国に残した生まれたばかりのわが子を2度と抱くことなく、その兵士は世を去りました。孤独で、無念の死であったでしょう。生きてもう一度、家族のもとに帰りたかったでしょう。でもその思いは果たせなかった」

 この「わが子」が、維さんの祖父・弘さん(75)。現在、京都市内で暮らす。作文は続く。  

 「時は過ぎ、残された彼の息子は立派に成長し、2人の息子を育てる親となりました。そして今では4人の孫に囲まれるおじいちゃんとなりました。実はその孫の1人が私なのです」

人の心の傷は誰も責任取れない

 維さんは両親、弟と一緒に、弘さんの近所で暮らしている。
 弘さんは自らの体験をほとんど話してこなかった。弘さんの次男で、維さんの父親である渉さん(44)は「父は祖父のことを語りたがらず、『覚えてない』とはぐらかしていた。でも、維だけには…」と話す。
 維さんは語る。
 「おじいちゃんは、父親の顔は写真でしか知らない。その温もりを知らないまま、自分がどんな思いで生きてきたかを話してくれた。そして最後は必ず、『戦争だけはしてはいけない。戦争は形式的な責任はとれるかもしれないが、人の心の傷はだれも責任を取れない』と結んだ。その言葉から、戦争の影にいつも苦しみや悲しみがあふれていることを知った。曾祖父もその中にいた1人だったと思うと、あの作文を書かずにはいられなかった」

戦死の知らせと家族宛の手紙

 弘さんが話した「父」とは。
 「父・廣吉は大正3(1914)年、故銅商の家庭の長男として生まれた。廣吉は会社名でもあり、跡取りとして大切に育てられたんでしょうな。それやのに、戦争というもんが、家族みんなの将来を大きく狂わせてしもうた」
 廣吉さんは出征前に八重さんと結婚、昭和15(1940)年7月に弘さんが誕生した。しかし、その後すぐに中国の戦地に赴いた。そして、昭和16年8月23日、腸チフスで戦病死した。
 「戦死の知らせと一緒に、遺骨と軍刀、帽子、かばんなどが戻ってきたそうだが、私の手元には家族宛てのはがきと手紙、1冊の手帳とかばんだけ」と語って、弘さんがその手紙を出してきてくれた。
 その手紙には、わが子の誕生を喜び、健康を気遣う様子が記されていた。「中学生の時に母から譲り受けて以来、久しぶりに手紙を読み返した。これが父の書いた文字や」。淡々と話す弘さん。
 渉さんから「もっと込み上げてくる感情はないの」と聞かれ、「戦後、母は帰還した廣吉の弟と再婚した。だから、父のことは遠慮して言えんかったんやろうな。私も聞こうともしなかった。親が戦死したという友達も多く、うちのように身内で再婚したケースも珍しくはないから」と弘さんは答えた。


時代ゆえに泣くに泣けず

 渉さんが思い出を語る。「子どもの頃、不思議に思っていたことがあった。わが家には毎月3回、お寺さんが月命日のお参りに来られていた。曾祖父と曾祖母と、もう1人」。この「もう1人」が廣吉さん。渉さんは小学生の頃、「『ぼくが一緒に住んでいるおじいさんは、ほんまのおじいさんとちゃうんか』と言うて何回も親戚の人に聞き返した」ことを覚えていた。
 渉さんは2児の親となってから、見たことのない廣吉さんのことを深く考えるようになった。
 「戦地で病に倒れた祖父は、どれだけ家族のもとに帰りたかったか、子どもに会いたかったかと思う。そして、戦死したと聞かされた家族の気持ちを思うといたたまれない。時代が時代ゆえに、泣くに泣けず、感情も複雑だったと思う」と言う。

直筆の文字伝わる思い

 「父が見せてくれたのは、実は初めてなんです」と言いながら、渉さんは廣吉さん直筆の手紙や病床日誌を手に取った。手帳を眺めて「生きて帰りたいとは書いていないが、亡くなる間際まで書き綴った文字から、『生きたい』『家族の元へ帰りたい』という強い思いが伝わってくる」。
 その側で、弘さんは孫の維さんを見ながら、「孫の作文がきっかけで、素直に父を偲し のべるようになったんです。今までこんなに父のことを考えたりしなかったから、何かうれしい。孫に刺激されたんかな」と笑顔を浮かべた。
 維さんの作文をきっかけに、戦争の悲しみを正面から見つめ、「家族」の絆を深めた船橋さん一家。作文にはこう結ばれている。

 「戦争は人の思いを踏みにじり、人の尊い命を奪い去ります。そして、残された人の心にまで、深い傷を残していきます。そんなことは本来あってはならないことです。再び戦争の惨禍で苦しむ人がないように、私たちはそれを後世に伝える重大な責務を背負っています。私たち一人一人が戦争の残忍さを直視し、反戦の遺志を貫かねばならないのです。2度と私の祖父や曾祖父のような思いをする人が出てこないよう、私は今後も反戦の考えは変えるつもりはありません」
(本願寺新報 2月1日号より転載)
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